2005年02月04日

**彷徨う人**

 デヴィット・クローネンバーグはわからない?

 正直、未見の作品も多いのだ。その割に、「ミディアン」のような出演作をしっかりチェックしているのは、まこともって変な話なのだ。

 「イグジステンズ」。99年の作品だから、多少のネタバレはいいよな。家庭用ゲーム機が、世界中の家庭に入り込んだ頃、 現実世界と仮想現実世界を行き来する物語が、カナダから発せられたのは、極自然なことだった。それまでも、 あちらとこちらを行き来する人を嬉々として撮り続けていたのだから。(くしくも同年には「マトリックス」がある。 そんな時代の高まりがあったのだろう。)

 一般・大衆・世間・マジョリティーというボクなんかが属する世界から、 ちょこっとだけ離れてしまって彷徨って彷徨って最後は戻れない場所にたどり着くというのが、この人の常だった。そこに哀愁や悲哀などはない。 観客に対して投げっぱなし。フォローなし。(間違ってないよな?)

 本作においても上の基本線は保たれているのだが、彷徨うのは劇中の登場人物よりも、観ている我々なのだ。 仮想世界であるゲームにゲームを重ねるものだから、こちらが戸惑ってしまう。「何処が現実で、何処がゲームなんだ?」と。
 意味ありげなゲーム機に意味ありげな小道具、意味ありげな突然変異の両生類。それらに惑わされながら、 必死にその意味を解き明かそうという努力は、すっかり無駄になる。
 「すべてはゲームの中の話なんだ」という約束事を突きつけられることによって。

 重ねに重ねた世界はラストになってようやく現実らしき世界に戻ってくる。そしてわずかながらの安堵をもたらしたあと、 一つのイベントがあってあっさりと終わる。まるで落語のようなオチまでつけて。


 と、5年前に観た時は「裸のランチ」体験版なのだと思っていた。ドラッグによるバッドトリップには及ばないだろうが、 気色の悪い両生類とその内臓によって十分にトリップ可能な作品だと。

davit  今、改めて観てみると違った観点を確認できる。
 現実主義者が仮想世界を構築しようとするもの(ゲーム開発者)に、 現実をゆがめたとして死をもたらすというラストイベントは皮肉が効いている。
 同郷の俳優とはいえ、バリバリの活動家であるサラ・ポーリーに体制側の人間を演じさせ、 反体制側の人間に撃たれて殺されるなんてシャレが効きすぎてないか?
 ここ(体制側)に、サラ・ポーリーを配置することが彼(クローネンバーグ)の狙いであったとするならば、彼って男はどこまでも怖い存在だ。 いや、あざとすぎる(笑。
 現実も虚構も、体制も反体制も、もちろん観ている側も、すべてはみんな彼の掌から出られない。 手の内でのたうち回るしかさせてくれないなんて、あんたは釈迦か?
 そうやって、文句の一言も言いつつも、新作ではまたもや転がされてしまうのだろう。間違いない。


 まったく関係はないが、中華料理店のスペシャル料理を喰う姿、あれはぞっとしたぞ。ボクが、豚足食ってる姿を傍から見たら、 まさしくあれじゃないのかな。人にその姿、見せないようにしよーっと。

 
posted by 森と海 at 23:53 | Comment(0) | TrackBack(0) | 監督さん
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのTrackBack URL
http://blog.seesaa.jp/tb/4812488
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。