2005年03月01日

**レプリカントはユニコーンの夢をみるか?**

 ディレクターズ・カット最終版のリリースによって、にわかにある説が浮かんできた。

 デッカード=レプリカント説である。

 劇場公開版においても、(いまになって気付くことではあるが、)その混乱した語りのなかにその匂いは存在していた。もちろん、 当時そんなことを叫んでいたのは、ほんの一部の覚者か、偏執的ロボオタだけだった。

 ネットをくぐると、様ような意見が取りざたされているが、つらつらと暴れ書きしてみる。 そんな話はイヤーンの人はここで閉じてください。


 

 まずはレイチェル(ショーン・ヤング)だが、プロトタイプであるが故、4年の寿命はなく、製造以前の記憶まで移植されている。 その記憶というのもタイレル社長の姪の記憶といった按配。身体能力についても特別人間と変わりなく、 まったくもって自分は人間であると信じて揺ぎ無い。そんな彼女は、自分がレプリカントであることを知って動揺する。
 
 次にロイ(ルドガー・ハウアー)やプリス(ダリル・ハンナ)達だが、それぞれ使役にそった形で身体能力を強化された量産タイプで、 記憶の移植はなく、それぞれが短いながらも経験してきたことによって、感情を獲得してきている。その感情、いうならば人格の獲得を恐れて、 安全装置としてタイレル社はリミットを設けている。感情の断片を獲得した彼らにとって、寿命が近づいてくることは恐怖であり、 それを回避するために地球圏に戻ってきている。危険を犯してまで。

 デッカード(ハリソン・フォード)は、まどろみの中で”ユニコーン”の夢を見る。夢とは、 無意識下における記憶の断片の散発的な発現であり、その夢自体には意味がないのが普通だ (夢に対して意味づけを行うフロイト的アプローチも存在するが、ここでは論旨より外れる為、割愛する。)。しかも、 (ブレラン世界においてどうなのかは述べられてはいないが)架空の生き物である”ユニコーン”の夢を見ることの奇異さは、劇中においても、 (ハリソンのつたない演技でではあるが)まどろみから覚めたデッカードの表情からも窺い知れる。
 
 話は終盤まで飛んで、ガブ(エドワード・ジェームス・オルモス)は、レイチェルについてこう言う。「彼女は4年しかない」と。ガブは、 レイチェルがプロトタイプであり、リミットが設けられてはいないことをしらない。そして、“ユニコーン”の折り紙をドアの外において去る。 今回は見逃してやるという意図を残して。

 前述の通り、“ユニコーン”とは、デッカードの深層心理に埋没した記憶である。その奇異な創造物をガブが折るということは、 デッカードの記憶は他人に確認できるもの、つまり、 人為的に保存されていてブレードランナーとして仕上げられるレプリカントに移植されているともとれる(かなり意訳)。 そうなるとガブの言葉は、「あんた達は先がないのだから、行きな」という意味にとれる。

 デッカードは、“ユニコーン“の折り紙を見てすべてを悟り、疎外されたもの2人、いつまでの命とも分からずの旅に出て行く。

 以上が、デッカード=レプリカント説の論旨である。こうしてみるとやっぱり前回のエントリーでぶち上げた『ブレード・ランナー」は大都会で出会ったやさぐれた男と女の物語なのだ。』は、あながち間違いじゃない。もちろん、 デッカード=レプリカント説が、当初からリドリー・スコット監督の意図するもの・ネライであったのかは分からない。 既にこんなこと書いてるボクも含めて、この説が一人歩きしているのだから。ボク個人の意見を言わせて貰えば、 「危うげな存在である自分を探す道程」というよりディックらしい話になっていて、こっちのほうが好みなのだ。 この傾向に警鐘をならす本も出ているようだが、映画をくいものにしてる時点で、ほかと大差ありませんから。

brrunron 『「ブレードランナー」論序説 映画学特別講義』

 しかし公開版とディレクターズ・カットとで、これほど意味合いの変わる映画も珍しい。そういう意味でも、 エポックメイキングな作品といえるだろう。

 

 

 

 
posted by 森と海 at 22:47 | Comment(0) | TrackBack(0) | Movie(米)
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